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レンガの歴史
レンガは、「煉瓦」と書きます。時おり片仮名で「レンガ」と書かれますが、決して外来語ではありません。土を四角く固め(多くの場合)焼き上げたものを煉瓦と呼んでいるのは、世界中で私たち日本人だけ。英語では、ブリック、中国語では、ツェンです。・・・だそうです。 ここで取り上げる、お話は、北海道浅井学園大学・生涯学習システム学部教授の水野信太郎先生のお話をもとにしています。(小冊子「れんが 住む 遊ぶ」より引用させていただきました) 煉瓦のイロハから始めましょう よく煉瓦は、赤煉瓦とも言われます。これは赤い煉瓦だけでなく、一色を除き全ての煉瓦を含みます。その色とは白です。白煉瓦は耐火煉瓦で、特別の耐火土を原料にして焼きます。赤棟屈以上に高温に耐えられる煉瓦ですが、値段が高く建築用には適しません。赤煉瓦は別名、建築用煉瓦と言われる普通煉瓦です。これは住宅やトンネルなど建築物や土木構造物に使われます。それらの色調には、赤や橙から紫っぽいもの、こげ茶色、さらに黒まであります。外国産の煉瓦には黄色や青、緑さえあります。これらすべてが赤煉瓦と一言で言い表される建築用煉瓦なのです。 煉瓦はどこから来た材料でしょうか? 狩猟時代のあと、ヒトは農耕を始めると、長持ちする住宅を建てて住み続けました。ところで自分の家を建てる時、昔の人々はどのようにしたでしようか。日本のように木がたくさん生えていれば、きりたおした丸太を地面に掘った穴に建てて柱にするのが簡単です。しかし、木が少ない砂漠の周辺などでは、身近な建築材料といえば泥と石ころくらい。こうなると下の方から順番に、石や土を積み上げて壁をつくる方法しかありません。ちょうどツバメが泥で巣をこしらえるのと同じょうに。人類最初の煉瓦は乾いて固まった土を、まだ柔らかい泥を接着剤にして積み上げるところから始まりました。それらはボタモチやオハギのような形でした。しかし積み上げるには平らな形がより好都合です。大きさも揃っていた方がじょうずに積めます。手早く煉瓦を形作るためには、型枠を使ってポンポンと型抜きすればよい事に気づきます。その結果、煉瓦は長さと幅と厚みが、ほぼ4対2対1という形に落ち着くのです。最初の煉瓦は、土を固めて太陽の熱で干しただけの日干し(ひぼし)煉瓦でした。完全に乾燥しているので、高く積み上げても下の方が押しつぶされる事はありません。日本では雨に濡れ、少しずつ溶けてしまうので問題ですが、砂漠ならば心配御無用。逆に乾燥地帯では煉瓦を焼こうにも、燃料になる木も草もなかったのです。煉瓦の発明は人類の四大文明と共にありました。エジプト・メソポタミア・インダス・黄河の古代四大文明において、それぞれ独自に煉瓦が発明されます。どこか一国が先生で、他の国が教えてもらったわけではない“同時発生的″なできごとでした。日干し煉瓦は紀元前八千年にはつくられていたそうですから、ちょうど一万年を過ぎた事になります。土を固めて干し、さらに焼いた煉瓦を焼成(しょうせい)煉瓦と呼びます。これは雨に濡れても大丈夫。焼き上げる時に、空気中の酸素と土の鉄分が結びついて酸化鉄になります。これが赤い色の正体です。つまり赤煉瓦の色の素は、砂鉄の赤さびと同じだったのです。日本の煉瓦に大きな影響を与えたのはオランダとイギリスです。この二つの国の共通点は、本国が小さいという点。そのため建築用の石材を大量に安定して得る事が難しいのです。イギリスとオランダは煉瓦の赤を建物の外観まで見せました。両国の影響を受けた日本人は、赤煉瓦むき出しでなければ煉瓦建築ではないと思っていますが、石が豊富な地中海岸のイタリアやフランスでは、煉瓦造建築の外側を石材で仕上げます。日本で煉瓦が本格的になるのは、幕末期から明治の文明開化の時代にかけてです。煉瓦は火事に対して強いうえ、くさらないという強みがあります。このため西洋式の工場や鉄道建設には、うってつけでした。北海道の煉瓦生産もそのような利点を期待して始まります。明治5年に、函館湾の茂辺地(もへぢ)で開拓使(かいたくし)が国営の煉瓦工場をつくりました。開拓使とは北海道の開拓を担当する政府の役所です。道内初の鉄道は明治13年に開通した幌内(ほろない)鉄道です。小樽港の手宮(てみや)と幌内炭鉱(今の三笠市内)をつないで石炭を運ぶのが目的でした。最初、橋は木製でしたが、明治17年から煉瓦橋に架けかえられます。そのエ事用煉瓦を生産したのが、白石の鈴木煉瓦製造場です。創業者の鈴木佐兵衛は明治10年当時、東京の小菅(こすげ)にあった銀座煉瓦街用のエ場で煉瓦を製造していたのです。小菅はイギリス人ウォートルスの煉瓦窯を築いた工場でした。江別の煉瓦生産は明治24年までさかのぼる事ができます。約百十年前、江別太煉化石(えべつぶとれんがせき)工場という製造所で、江別駅の南東方向、千歳川右岸にありました。 やがて野幌駅の周りに10か所以上の煉瓦工場と土取り場(土とりば)ができていきます。駅の北側には工場群が多く、土取り場の大半は南側の広い大地でした。 煉瓦は今後どこへ行こうとしているのでしょうか? 北海道には明治以降、洋風の風景がつくられました。また、北海道は冬の寒さが厳しいという面もあります。煉瓦は、この両面に応えられる材料なのです。先ほど煉瓦は火災にも耐え、くさらないと申しました。煉瓦にはメンテナンスフリーという、もう一つの長所があります。煉瓦の壁はペンキを塗り替える必要もありませんし、古くなったらなったで味が出てきます。建物の壁厚をふやして断熱層をつくれば、冬の寒さを防ぐのにも効果絶大。その意匠(いしょう・姿かたち)は色鮮やかな赤であったり、落ち着きのあるチョコレート色だったり。まちなみの写真を一目見て、江別だとわかってもらえるような都市景観も夢ではありません。居心地が良くてカツコイイ、そのうえお得、これが煉瓦なのです。 煉瓦は人間の身近にある「土」を使って作ることができるため、世界各地で最も古くから使われてきた建築用材料のひとつである。 煉瓦の歴史は古く、紀元前3千年頃、あるいはそれ以前からとも言われており、古代エジプト、メソポタミア、中国では煉瓦を使って塔などの建造物が築かれ、とくに有名な大きなものとしては中国の万里の長城がある。 中国では煉瓦のことをタイル状のものも含めて「セン」と呼んで、古くは日干し煉瓦を「ゲキ」と、焼成煉瓦を「ヘキ」あるいは「レイテキ」と呼び変えていたようで、煉瓦の歴史は極めて古く、我国には、仏教にともなって伝来した寺院建築の技術の中に伝えられたと思われているが、明らかではない。 我国に本格的に赤煉瓦が導入されたのは幕末期の軍事工場においてであるが、その後、安政年間、慶応年間、そして明治初期と、いづれも外国人技師の指導のもと、日本の瓦師が苦心して赤煉瓦を焼きあげた。 北海道における煉瓦の製造は、明治5年、函館近郊の茂辺地村が始まりで、樺戸、帯広、網走の集治監でも煉瓦は作られたが、その後、明治23年には江別でも煉瓦生産が始まり、野幌周辺が最大の煉瓦生産地となった。 最盛期には野幌にあった10数社の煉瓦会社も現在では3社となり、当社は、先代社長西村吉次郎が昭和4年4月より空知郡栗沢村最上(現在の栗沢町)の小林煉瓦工場の煉瓦及び土管製造の経営に当り、昭和13年6月には、満州国北支那の業界を視察し、同年8月に夕張郡長沼村大字北長沼(現在、長沼町北長沼市街)に昭和煉瓦株式会社を創立、取締役となって事業経営に当る。 さらに、昭和15年4月に札幌郡白石村大字白石(現在、札幌市白石区平和通5丁目南2付近)に所在の北海道煉瓦株式会社、専務取締役に就任し経 営に参画する。 当社の創立は、昭和15年9月1日に札幌郡江別町野幌(現在、江別市幸町35番地)において、さらに昭和16年1月23日に資本金18万円で江別市幸町35番地に設立。先代社長西村吉次郎が煉瓦製造以来、創業61年の歴史を有し、この間、昭和18年4月に札幌郡白石村大字白石に所在の北海道煉瓦株式会社を当社白石工場とするなど、野幌煉瓦製造の歴史の半世紀も越え、幾多の試練をのりこえ、時代を先取りした地球にやさしい、環境と共生できる煉瓦造りをめざし、平成3年11月には、江別市工栄町に日本最大規模の全自動設備ライン工場が完成し日本一の赤煉瓦生産量を誇る工場となっており、さらに平成8年8月には、角山本社レンガプラント工場が、江別第二工業団地に江別市幸町35 番地より、移転新築完成しております。〔主な製品名はレンガ、レンガブロック、タイル、陶土管類、暗渠排水土管、視覚障害者用ブロック、粗面レンガ、メーソンリーレンガ(外断熱工法用)、クラシックレンガ、レンガデューン、ガーデンポット〕 煉瓦の歴史 煉瓦が建築材料として使用されるようになったのはメソポタミア文明の時代からである。チグリス川、ユーフラテス川にわたる広大な範囲で煉瓦建築が発展していった。紀元前4000年からの約1000年間は、乾燥させただけの日干しレンガが使用されていた。紀元前3000年頃からは、焼成レンガが使用され始め、この頃には大型の建造物の外壁の仕上げに焼成レンガが使われている。内部の壁には一番厚い日干しレンガを使用し、焼成レンガはそれを保護するために使われていた。紀元前1600年から1000年の間には金型を使って様々なスタイルに表面を細工した焼成レンガも見られるようになる。紀元前700年頃から湿式法を用いて焼成されたレンガで多くのモニュメントや重要な作品が作られ始めた。その時代にはまだ全ての工程が手作業で行われていたにもかかわらず、広範囲に渡る地域で多数使用されており、その生産量は驚くほど多い。エジプトにおける煉瓦を使用した建築物は、メソポタミア文明より後のものであり、エジプトから煉瓦技術が地中海沿岸やインド、中国に伝わっていったと考えられている。最も古いピラミッドの中には、内部の壁に乾燥レンガを使い、外側を石で仕上げてあるものもある。また、その頃エジプトで使われていたレンガの寸法は、現在使用されているものに大変近い。ヨーロッパでは数世紀間、レンガの生産技術(採砂、準加工、乾燥及び焼成方法)はローマより取り入れられてきた。煉瓦建築は19世紀まではあまり変化を遂げず、乾燥はそれに適した時期だけ日干しし、焼成は野外にレンガを山積みにして作った釜で行われていた。今からおよそ100年ほど前に発動機(蒸気による機械)が導入されるようになってから、煉瓦生産の技法が変わり始めた。この機械の導入によって、準加工と成形工程を機械化させることが可能になり、生産力及び工場設備(機械)の作業能率が高まった。また、この発動機をとりいれた焼成システムによって、生産が合理化され同時に熱の消費が大幅に減った。 煉瓦建築 世界 ヨーロッパでは煉瓦は多くの建物に用いられているが、本格的な建物の場合、構造が煉瓦造でも表面を漆喰や石で仕上げることが多い。赤煉瓦のままの建物はよほど古風なものか、工場、倉庫など簡素なものである。しかし、イギリスなどで中世趣味のため、あえて赤煉瓦のままとすることがある。 日本 日本で最初期に造られた煉瓦建築は幕末の反射炉である。お雇い外国人の指導で官営事業を中心に煉瓦の製造、建設が始まった。銀座煉瓦街の建設の際は大量の煉瓦を必要としたため、東京の小菅に煉瓦工場が築かれた。明治中期頃には煉瓦職人も増え、一般的な技術の一つになったが、耐震性の問題から、関東大震災以降、鉄筋コンクリート造が主流になった。 韮山反射炉 富岡製糸場 北海道庁赤れんが庁舎 聖ヨハネ教会 博物館明治村に復元されている。 横浜赤レンガ倉庫 舞鶴赤レンガ倉庫群 煉瓦倉庫レストラン街 上野図書館(国際子ども図書館) 構造は鉄骨で補強した煉瓦積、仕上げは白タイル。 赤坂離宮 構造は鉄骨で補強した煉瓦積、仕上げは花崗岩。 東京駅 国内最大規模の煉瓦建築。空襲で被害を受け、復旧の際に3階建から2階建に改められたが、元の形に復元する計画がある。 立教大学 赤煉瓦の校舎がキャンパスに並ぶ。 誠之堂 渋沢栄一に贈られたもので、世田谷にあったが、切断して深谷市に移築された。 深谷駅 東京駅の煉瓦を焼いた工場が深谷にあったことから、赤煉瓦の駅舎を建てた。構造は煉瓦造ではなく、一種のフェイクである。なお、煉瓦を焼くために築かれたホフマン窯が日本国内に4か所ほど残っている。
by h.maruya
| 2007-05-04 02:34
| 資料・自然素材
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